Merry Christmas
もうすぐ、クリスマスだ。
梨緒はビルの間に覗く空を見上げた。青い空は透明で、どこまでも高い。
「どうしたの?」
ランチ中に空を見上げる梨緒に、同僚の亜美が怪訝に訊いてきた。
「ん。もうすぐクリスマスだよなぁって。思って」
「そうなのよ。子供のおもちゃって結構高額なのよねぇ」
既婚者で子持ちの亜美には、クリスマスはときめくものではなくなったらしい。
「そうだね」
心ここにあらずな声になった。
「心配事でもあるの?」
「ん。―――クリスマスね。12/25。あのひとの奥さんが亡くなった日なんだって」
「……」
いつも明るい亜美が言葉を失う。亜美は梨緒が社内恋愛をしていることを知る数少ない者のひとりだった。誤魔化すように笑む梨緒。
しかしそれも、すぐに涙を堪える顔になる。
「14年前だって。年齢が問題なのかなとか思ってたんだけど、違う気もしてきちゃって」
「梨緒」
「どう頑張っても勝てないよ。いまでもずっとずっと、奥さんのこと愛してるんだ。だから、だからいつもはぐらかされて、近付いたと思っても届かなくて」
他の同僚から隠すように、亜美は梨緒の隣に座り直す。
その気遣いが嬉しくて、ごめんねとしか言えない梨緒。
クリスマスの孕んだ深い意味が、苦しい。
イブの夜から甘い時間を過ごせると思っていたその日は、あのひとにとっては喪失を強いられた辛い日でしかない。
黒須と想いが通じ合ったのは、今年の春のこと。不思議なくらい、黒須は梨緒に対して一線を引いていた。
彼は、梨緒に対して踏み込もうとしない。
キスも、それ以上も求めようとしない。
アプローチしたのも、どこかに誘うのもいつも梨緒のほう。一度だけ、キスされそうになったことがある。けれど直前で、なにかを堪えるように身を引かれてしまった。
『君のせいではないから』
黒須はそう言ってそっと梨緒の頭に手を遣ってくれたが、彼の気持ちは自分にはないのではないかと、本気で好きなのは自分だけなのではと不安で不安でたまらなかった。
それでも、黒須の態度は変わらなかったし、こちらを甘やかな眼差しで見つめてくれていると感じるのは、きっと、思い違いではない。
クリスマスは予定がありますか?
勇気を出して思いきって尋ねて返ってきたのが、『25日は、あいつの命日だから』という言葉だった。
突き放された思いに、目の前が真っ暗になった。
黒須の、彼の心にいるのは亡くなった妻だけなのかもしれない。
「信じるしか、ないんじゃない?」
涙を堪える梨緒に、亜美。
「黒須さんの中でなにか、踏ん切りというか……いつかはちゃんとそういう時が来るから。自分の気持ちもだけど、黒須さんのことも信じてみようよ」
「亜美先輩」
力付けるように微笑む亜美。
「一生このひとについていくぞーって思えば、ちゃんと待てれるから。ね? 好きなんでしょ? 好きって気持ち、止められないんでしょ?」
「はい」
「だったら、信じて待ってみよう? 好きになったひとなんだもの。ね?」
「亜美先輩……」
胸が震えた。
亜美の言葉はさらさらと梨緒の不安を溶かし流してくれる。
そう。
信じていこう。
信じていくしかない
梨緒は熱い想いに頷きを返した。
黒須が言っていたとおり、イブも25日も逢うことはできなかった。
だが、26日、残業を終えて会社を出たところで、黒須の姿を見つけた。
梨緒を待っていたのか、すぐに目が合い、こちらにやってきた。
「お疲れさまです」
「御苦労さん」
「えと……、寒いですね」
「昨日のこと、謝りたくて」
唐突に黒須はそう言った。梨緒は小さく首を振るしかできなかった。
「歩きながら、いいか?」
「あ……、はい」
駅までの道をふたり並んで歩くものの、梨緒も黒須も黙り込んだままだった。
「寂しい思いをさせてしまって、済まなかった」
ややして、黒須が口を開いた。
「いえ。そんなこと」
あったけれども。
なんて言えるはずもなく。
「夢にな、出てきたんだ。あいつが。昨日」
黒須の足が、止まる。その足元を、落ち葉が風に流されていく。
「叱られた。幸せを自ら逃すんじゃないって」
「……」
泣くのを堪えているかのような黒須。
「―――怖かった。梨緒も26歳を迎えられないのじゃないかって」
黒須の妻は、25歳の若さで亡くなったということか。
想像はしていたが、そのあまりの若さになにも言えなくなる。
梨緒は、来月26歳になる。
それすらも、黒須には不安だったのだろう。
「莫迦だよな。お前を失うのが怖くて踏み出せなかっただなんて」
「そんなこと……」
普段は口数の少ない黒須が、今日はまるで贖罪するかのように言葉を紡ぎ続けている。
「こんな男、見限られても仕方ないんだけど」
「そんなことないです」
梨緒は黒須の前にまわり込んで、その両腕をしっかりと掴んだ。
「そんなことない。気持ちは、変わってなんかない。全然変わってなんかないです」
梨緒の勢いに、黒須は虚をつかれたように無防備な表情になる。
その瞳に、生気のようなものが熱く閃いたと思った瞬間、梨緒は抱き締められていた。
「ありがとう」
「―――ん」
「もう、待たせたりしないから」
「―――はい」
黒須は軽く身体を離し、梨緒の頬に手を添えた。
上向かされる梨緒。
唇に落ちる、優しい感触。
『信じて待ってみよう? 好きになったひとなんだもの』
亜美に言われた言葉が、胸によみがえる。
閉じたまぶたの奥が熱く震え、ひと筋の涙がこぼれた。
頬を伝うその涙を、黒須はそっと唇ですくい取っていった。